エターナルグルーヴズ〈ETERNAL GROOVES〉

ライナーノーツ

EMI STUDIO Sessions 1967 vol.1

セッション音源 その奥の細道へ

 

 ビートルズがEMIスタジオで行った録音作業を、現存する音源で時系列に追う全スタジオ・セッション・シリーズ。エターナル・グルーヴズから以下の6作品がリリースされ、本作は7作目となる。

 ビートルズとしてのレコーディング活動は、およそ8年間。60年代は、レコードが完成すれば、マスターテープは消去か上書きされる時代だ。よほどの預言者でもない限り、過去の制作作業中の中途半端なテイクに商品価値が認められるようになるとは想像もできなかった。ビートルズであっても、すべてのワーキングテープが残されているわけではない。しかし、名曲が生まれる過程、「それを聴いてみたい!」というのも音楽ファンとして当然だ。そんなファンの願いをかなえるべくリサーチを重ね、世界中からコレクトされた音源から、本作は構成されている。

 

『ワン・デイ・セッション(EGDR-0018)』

『フロム・ミー・トゥ・ユー・セッション(EGDR-0019)』

『EMIスタジオ・セッションズ 1964(EGDR-0021)』

『EMIスタジオ・セッションズ ’64-’65(EGDR-0022)』

『EMIスタジオ・セッションズ ’65-’66(EGDR-0023)』

『EMIスタジオ・セッションズ ’66-’67(EGDR-0024)』

 

 ビートルズのアーカイヴ音源は、ローリング・ストーンズなどに比べて、多く残されている。ビートルズは、早くからヒットを連発し、ジョージ・マーティンのもと予算にしばられず、EMIスタジオを独占的に使用することができたからだ。この時ジョージ・マーティンはすでに独立し、フリーの立場から録音に関わったが、EMIには熱意あるエンジニアが多く、技術的にもビートルズの音楽制作に貢献した。前年に20歳の若さでチーフ・エンジニアに就いたジェフ・エメリックや、ADT(機械的にダブルトラック・ボーカルを生成)を生み出したケン・タウンゼントなどが、楽器録音のマイク設定、逆回転やピッチ変換、サウンド・コラージュなどで新機軸を見出し、ビートルズの音楽の先進性をサポートした。

 ビートルズが事実上、ライヴツアーを止めてレコーディングだけに専念することを決意した1966年。11月から始まったアルバム『サージェント・ペパーズ』のセッション。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー/ペニー・レイン」という、史上最強ともいえるカップリング・シングルを手始めに、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」に取り掛かるところまでを収録した前作(EGDR-0024)から引き続き、本CDは1967年1月20日のEMIスタジオから幕を開ける。

 

20th January 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-1:10 AM

 

1:A Day In The Life (take 6 /RM1)

 シンプルにして壮大、空前絶後の曲となった「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」。この時代の空気を見事に反映した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」で助走をつけたジョンから、一気に投入!と思いきや、ジョンは曲の序盤だけを書いて、ゴールも定めず無責任にも録音に突入(いかにもジョンらしい)。のちにポールが書いた全く別の曲、「目を覚まして、ベッドから転げ落ち・・」の部分を、中間部に繋ぎ合わせたエピソードは有名だが、それもやはりジョンの「今日、新聞で読んだよ。成功した男の、どちらかというと悲しいニュースを」から始まる序盤が、恐ろしいほどに多面的なイメージを持っていたからこそ、ポールやメンバーの創造性を刺激した結果だろう。

 スタジオにあった目覚まし時計のベルまで鳴らし、のちにはオーケストラ奏者40名を呼んで、4回の演奏をダビングして重ねる(都合160名分のオーケストラ音)。それほどのポテンシャルを、この曲は持ちえていた。

 ここでは、そのオーケストラを加える前の段階のバージョンが聴ける。ポールの中間部分に至るまでの空白は「16、17、18・・・24」とローディーのマル・エヴァンスが小節数をカウントして、目覚まし時計が鳴ってポールが歌いだす。ポールは「somebody」と歌うところを「everybody」と間違えてしまい「s○○t」と罵り言葉を思わずもらす。そしてエンディングも再びマルの小節数のカウントが入り、混乱のまま終わる。まだこの段階では完成型には程遠い。

 

1st February 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-2:30 AM

 

  1月20日のセッションのあと、ビートルズたちは、ブライアン・エプスタインの主催するフォートップスの来英コンサート(1/28)、ジミ・ヘンドリックスやザ・フーのライヴをロンドンで観たり(1/29)、ジョージはドノヴァンにシタールを教えたりして(1/21)過ごしていたが、1月27日にはEMIと9年間の契約延長にサインをしている。今では考えられない長期契約書だが、この時点で4人とも「ビートルズはずっと続いていく」と考えていた証拠ともいえる。1月30日には「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー/ペニー・レイン」用のミュージック・ビデオの撮影を、ケント西部のセブノークスで行った。乗馬シーンは2月の5日と7日に追加で撮影している。完成したビデオは2月9日にはBBCで放映された。編集、なんちゅう早さだ!

 

2-4:Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band  (take 1 / take 9 / Overdubs=2nd February)

 アルバム『サージェント・ペパーズ』のイメージを決定付ける曲の録音が始まる。1966年11月19日、ケニヤ・ナイロビからの帰りの飛行機の機内食で「塩と胡椒を(ソルト&ペッパー)」と言ったマル・エヴァンスの言葉を「サージェント・ペパー」とポールが聞きちがいをする。そこでポールが思いついた「ペッパー軍曹のバンドによる架空のコンサート」というコンセプトだ。

 ちょうどコンサートから手を引いた時期。前年の秋以降、人前に姿を現さなくなったビートルズを、新聞やメディアは追っていた。「解散するのですか?」「今は何をしてるんですか?」 メンバーは、それぞれが髭をたくわえ、派手な服装に変わっていて、ジョンに至っては別人にしか見えない。このまま、架空のバンドに成りすますのも面白いのでは、と考えたのだ。

 ここのtake 1では、ポールがエレキ・ギターを弾いていて、バンドを引っ張っていく。ジョンがベースを弾いたというが音は聴き取れない。テイク9をOKとして、翌日にポールがベースを重ね、ボーカルとコーラスを重ねたのがtrack4(take 9+overdubs)だ。

 

8th February 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-2:15 AM

 

5:Good Morning Good Morning (take 1)

 コーンフレークのCMから発想したジョンの曲。ジョンはとても自然に変拍子の曲を書く。メロディと歌詞を優先して作曲しているからだろうが、拍子にとらわれないのがジョンの作風だ。「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」の7拍子や、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」の3拍子と4拍子のコンビネーションなどが有名だが、その数あるジョンの変拍子曲の中でも、この曲は最強だろう。5拍子と3拍子が混在し、時には4拍子に。めまぐるしく変わる拍子と展開。ジョン以外のメンバー、よく演奏できたもんだと感心する。特にここではボーカルなしなので、皆さんも一緒に演奏するつもりで一度お聴き頂きたい。本テイクはリンゴのドラムと、誰かのギター(ジョージか?)が演奏しているベーシック・バージョンだ。16日にはダビングを施す。

 

9th February 1967 – Regent Sound Studio, London 時間不明

 

 この日はEMIスタジオが使用できなかったようだ。ビートルズとジョージ・マーティンの5人がロンドンのリージェント・スタジオへ出向いての作業となった。

 

6-8:Fixing A Hole (take 1-3)

 初めてトライするポールの新曲。EMIスタジオの録音方法と違い、ポールはボーカルも同時に歌った。公式テイクとは違うラフなボーカルが聴ける。21日にEMIスタジオでダビングを重ねて完成される。

 

10th February 1967 – EMI Studio 1, London – 8:00 PM-1:00 AM

 

9-11:A Day In The Life (Orchestra Session / RM3 / Hummed Last Chord)

 マル・エヴァンスがカウントする例の中間部分。ジョン作のパートから、ポール作のパートへ繋ぐ、その空白の24小節を埋めるべくポールが思いついたのが、大勢のオーケストラ奏者に「最低音から最高音まで徐々に上昇する演奏」をしてもらうことだった。ヴァイオリンなどの弦楽器、トランペットなどの管楽器、ダブルベース、ハープなど。招かれた40名の奏者たちは、ジョージ・マーティンの要望を最初は理解できなかった。クラシック畑の奏者でなくとも誰でもそうだったろう。一番低い音から一番高い音まで、ただ音を出すだけで演奏料をもらえるというのか。

 G・マーティンは、それでも大体の見当で楽譜を書いたそうだ。このtrack9では、充分にコントロールされたオーケストラの混沌とした演奏が完奏バージョンで聴ける。

 次のtrack10(RM3)がオーケストラを重ねたバージョンだ。ラフスケッチだった「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」がようやく姿を現した。しかし、まだ足りないものがあった。最後の最後、オーケストラの音が鳴り止んだ刹那に残る最終和音だ。オーケストラが帰ったあと、ビートルズたちはハミングで「アウンッー」と、その和音をトライする。ピアノで音程を確かめながら何度もハミングするテイクが聴ける。こんなアレンジを試みていたとは驚きだし、その探究心には頭が下がる。そしてこのハミング和音を、最終的に選択しなかった音楽的嗅覚もさすがと言わざるをえない。

 ここで、これも語っておかないといけない。2’50″過ぎに歌われる「アー、アアアー」はジョンなのかポールなのか。「アー問題」としてビートルズ・ファンの間でも長年決着のつかない論争だ。筆者は初めて聴いたときからジョンだと疑っていなかったが、近年その意見を改めた。ここではエコーはかかっているが、余り装飾されていない状態で「アー問題」部分が聴ける。皆さんの判断はいかに。

 

16th February 1967 – EMI Studio 3, London – 7:00 PM-1:45 AM

 

 2月12日。キース・リチャード宅で行われたパーティに、ジョージ・ハリスンとパティ、『サージェント・ペパーズ』のジャケット写真を担当したマイケル・クーパーらが出席。ジョージたちが去ったあと、麻薬捜査班が踏み込む。MBE勲章ホルダーが現場を去るタイミングを警察は見計らっていたとの噂。

 

12:Good Morning Good Morning / take 9 (RM1)

 ジョンの変拍子ソングに、歌とベースをダビングしたバージョンだ。後日、ホーンセクションや、ポールのリード・ギター、そして動物の鳴き声などサウンドエフェクトも加えて完成される。朝だ、オハヨー、だからニワトリは鳴く。コケコッコー。赤塚不二夫(笑?)。日常に心配ごとでもあったのだろうか。

 ポールは「ジョンはこのとき郊外に住んでいて、シンシアとも問題があって、生活に不満も持っていたし、退屈なことへの危機感から生まれた曲だったと思う」と回想している。

 

17th February 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-3:00 AM

 

  この日、2月17日、ダブルA面のシングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー/ペニー・レイン」が発売される。おそらくロック史上、最も豪華なこのシングルは、なんと全英1位を逃している。それはデビューシングル「ラブ・ミー・ドゥ」以来のことだ。近年、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の評価はうなぎのぼりだが、当時のリスナーの反応はイマイチだったのだ。「少しだけ時代の先を行く」 まさに革新的アーティストの本領だ。

13-16:Being for the Benefit of Mr. Kite! (take 1-7)

 その「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のミュージック・ビデオ撮影の日に、現地のアンティーク・ショップで、ジョンが見つけて買って帰った「19世紀のサーカスのポスター」から着想を得て書いた曲。のちにサーカスの雰囲気を再現すべく、テープループの効果音がコラージュされるが、ここではまだオルガンとベース、ドラムに、ノリノリのジョンのボーカルというシンプルな編成でテイクを重ねている。後年のジョンの発言では「ポスターに書かれた言葉を使って惰性で書いた」と言ったと思えば、「普遍的に美しい曲だ」と二転三転するのだが、ポールは自身も作曲に関わったという認識で、お気に入りだ。2000年代に入って自らのコンサートで、幻想的なライティングとともに演奏される率が高い。

 

22nd February 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-3:45 AM

 

 2月19日、ジョンとリンゴは、ロンドンのサヴィル・シアターでのチャック・ベリー公演を観る。

 

17:A Day In The Life (Piano Last Chord/take1-9)

 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の最後のピース。10日にハミングで試みた最終コードを、複数のピアノで一斉にEコードを鳴らす録音をトライ。

 ポール「マル、ラウドペダルを踏むんだ」

 マル「どれ?」

 ポール「右にあるやつだ。(実際にコードを弾く)こんな感じでエコーをかけるんだ」

そんな会話のあと、何度かテイクを重ね、最後のEコードが延々と鳴り響くテイクで完成する。

 

23rd February 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-3:45 AM

 

18-19:Lovely Rita (tryout/take 8)

 米国では駐車違反の切符切りの婦人警官を「メーター・メイド」と呼ぶことを知ったポールが、その言葉の響きを気に入って作った。12弦アコギを試し弾きするテイクから聴ける。

 

1st March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-2:15 AM

 

 アルバム『サージェント・ペパーズ』のレコーディングは4月3日まで続き、犬にしか聴こえない15キロヘルツの音(実際にはカッティング作業で加えられた)や、レコード溝の最後に入れる逆回転の笑い声などの編集作業を経て4月21日に終了するが、そこまでは本CDに収まりきらないので、この3月1日のセッションまでとなる。

 

20-22:Lucy in the Sky with Diamonds (take 1 / take 5 / take 8+overdubs )

 ジュリアンが保育園で描いた絵。幻覚剤LSDについて。「不思議の国のアリス」からの転用・・・様々な憶測を呼んだ「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」。公式バージョンのカラフルで摩訶不思議な音像は、サイケデリックな時代を象徴する名曲として評価を得た。

 メンバーは前日の2月28日に、EMIスタジオで丸一日、8時間をかけて、この曲をリハーサルしている。事前にリハだけをするとは珍しいことだが、残念ながら録音は残されていない。

 推測だが、ジョンが持ち込んだこの曲を聴いて、Aメロ、Bメロと3拍子で進んだあと、サビで4拍子に変わる構成を、どうアレンジするか試みたのではないか。

 さらにまったくの私見だが、ジョンが最初に書いたコード進行は以下で、バンドでアレンジしながら変わっていったのではないだろうか。

 

 

①ジョンの当初のコード進行(推測)

│A│A7│D│Dm│A│A7│D│Dm│

 

②イントロ・アルペジオ完成時のコード解釈

│A│A7onG│F#m│Dm onF│A│A7onG│F#m│★F│

 

 

①は、当時のジョンが多用したコード進行で、手グセともいえる。エルトン・ジョンが後年カバーした際は、これに近い解釈だった。

②は、後のジョンの遺作「フリー・アズ・ア・バード」を彷彿させるコード進行だ。

 特にポールと、ガヤガヤ意見交換しながら、アレンジを作り上げていったのだろう。ジョンらしい意外な展開となるコードB♭から始まるBメロの直前には、★部分=「コードF」を配して効果的にBメロへと進んでいくのだ。

 

サマー・オブ・ラブの季節の中へ

 

 1967年3月1日まで聴いてきたところで本CDは終わる。ビートルズと一緒に、アルバム制作をしているような気持ちで進んできた。なんとなくアーティスト本人の心にも触れたような気分になってくる。

 この頃、曲作りに関してジョンは盛んではなかった。対してポールは、前年のアルバム『リボルバー』あたりから創作力の爆発状態にあり、沸いてくるアイデアはとめどがなかった。メンバーそれぞれ浮き沈みもあるだろう。前作にも書いたが、待ち時間の長いリンゴは暇を持て余し、スタジオでチェスの腕をあげ、ジョージの心はインドにあったという。それでも2人は、素晴らしい演奏を『サージェント・ペパーズ』に残している。それがひとつのバンドであり、同志といえる。

 ビートルズとして積み上げてきたものが、一気に花開く季節にさしかかっていた。その姿を見届けたかのように、ビートルズ成功の立役者、ブライアン・エプスタインはこの年の8月27日に突然死する。

CROSS(the LEATHERS/島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS)