エターナルグルーヴズ〈ETERNAL GROOVES〉

ライナーノーツ

EMI STUDIO Sessions 1967 vol.2

アルバム『サージェント・ペパーズ』遂に完成へ

 

 ビートルズがEMIスタジオで行った録音作業を、現存する音源で時系列に追う全スタジオ・セッション・シリーズの第8作目が本作だ。このシリーズでは、通常であれば聴くことのかなわない名盤や名曲の制作過程での音源が次々と明らかにされている。

 このような貴重音源は、欧州や米国では70年代から海賊盤としてアンダーグラウンドで流通され、80年代になると、一定期間経過した芸術作品の二次使用の際の著作隣接権を解いて、伝承芸術のように公的財産と認め、自由に頒布できるという法解釈のもと、作者には著作印税をしっかりと支払ったうえでハーフ・オフィシャル盤CDという形で、日本にも広く輸入された。当時の税関では、原産国で印税がちゃんと支払われているかのチェックが厳しく、そこで証明できないCDは破棄されたものだ。

 このように法律的にもクリアとなったCDは、例えばアーティストの来日公演をライヴ会場で無許可で録音し販売するという違法商品とは一線を画すものである。70年代には劣悪だった音質が飛躍的に改善されていたこともあって、一般的な音楽ファンにも知られることとなった。

 2000年代に入り、著作隣接権の解釈も世界的に法整備され、現在では1967年までの音源に関しては「パブリック・ドメイン」として、誰にも帰属しない知的創作物として扱われている。

 とはいえ、音質が鑑賞に耐えうるクオリティであることはもちろん、そのテイク自体に希少価値がなくてはリリースする意義もない。エターナル・グルーヴズは、その点に心を砕き、高音質かつ貴重テイクの探求を続けている。

 

3rd March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-2:15 AM

 

 ライヴ活動を封印し、スタジオワークに専念する時間を得たビートルズ。1966年11月から始まったアルバム『サージェント・ペパーズ』のレコーディングは、EMIスタジオで連日、深夜まで行われ、既に100日を経過し1967年3月に突入していた。3月1日の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」のセッションまで収録した前作(EGDR-0025)から引き続き、本CDは1967年3月3日のEMIスタジオから幕を開ける。

 

1:Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (take 10/Guitar & Brass Overdub)

 「ペッパー軍曹率いる架空のバンドのコンサート」というポールのアイデアから、このタイトル曲をアルバムのコンセプトにすると決めたビートルズ。2月1、2日にベーシック・トラックの録音を終えてから、早くも1ヶ月が経っていた。この日、4人の外部ミュージシャンがブラス・セクションのために呼ばれて、スタジオでポールとジョージ・マーティンがブラスのフレーズを相談しながら決めていったそうだ。その様子をジョンはオペレーターに頼んで、会話も含めすべてを録音し、私物として持ち帰ったという。もし紛失していないとしたら、そのテープはヨーコさんのお手元にあるのだろうか。

 そこに強烈に歪ませたエレキギターをポールがダビングする。この当時、ロンドンでは米国からやって来た黒人ギタリストの話題でもちきりだった。そう、ジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンス。エリック・クラプトンが結成したクリームもまたしかり。歪ませたギターで大音量でロックするのが、ロンドンでのトレンドだったのだ。ビートルズたちも、ジミやクリームの演奏は生でも体験していたし、その空気を間近で感じていただろう。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」には、その影響が感じられる。ポールの弾くジミヘンばりのギターに、ブラス・セクションの組合せを聴いてみて欲しい。このミスマッチな感覚が『サージェント・ペパーズ』をコンセプト・アルバムの金字塔へ導くことになる。

 後日譚がある。アルバム『サージェント・ペパーズ』が発売された3日後、ジミヘンがライヴの1曲目に演奏したのは、なんと「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。客席にいたポールはいたく感動したという。発売わずか3日後にカバーしてくれた。それもポール自身が、この曲で意識したジミヘン本人が、なのだ。

 

6th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-12:30 AM

 

 「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が完成すると、アルバムの1曲目に置く意見が固まるが、そこに開演前のざわめきや、楽団のウォームアップの音を加えるアイデアが出る。

 

2-4:Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (edit piece / crowd sounds / applause)

 track3が「開演前のざわめきとウォームアップ」の元テープだ。これはEMIの保管庫から調達したライブラリーテープ「第28巻:喝采と観客のざわめき~ロイヤル・アルバート・ホールとクイーン・エリザベス・ホールで録音」から流用し、楽器のウォームアップの音は「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラ録音の際のテープから用いられた。

 track4は、2曲目の「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」へ繋がるところで使用される観客の拍手の音声だ。公式版ではさらにビートルズのハリウッド・ボウル・コンサート(当時は未発表だったライヴ)での観声も重ねられて完成する。

 

9th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-3:30 AM

 

 3月7日に「ラブリー・リタ」のダビングを完了させる。その夜にポールはピーター・ブレイクと夕食を共にし、そこで「ラブリー・リタ」のアセテート盤を聴かせている。ピーター・ブレイクは『サージェント・ペパーズ』のアルバムカバーを制作したデザイナーだ。ピーターはデザインの参考のためか、何度かスタジオに訪れ、ジョンらメンバーとも何回か夕食を共にしている。実物のオブジェを使ってコラージュする独特のデザインは、この時代のポップアートの象徴となる。ザ・フーのいくつかのアルバム・ジャケットや、ポール・ウェラー『スタンレーロード』、オアシス『ストップ・ザ・クロックス』など、いかにもピーター風と分かるデザインが残されている。

 

5-8:Getting Better (take 1-3)

 リンゴが1964年に扁桃腺炎でツアーを休んだときに代役を務めたドラマー、ジミー・ニコルが「だんだん良くなって来てるよ」と口癖のように答えていたことに由来する、ポール作の「ゲッティング・ベター」だが、「昔の僕は女性に冷たくしては殴ったりしてた」という歌詞はジョンが書いた。ポールが天真爛漫な陽気さで書く曲も、ジョンの作風が加味されると、ぐっと深さと広がりが出てくる好例だ。

 ジョンとジョージのエレキに、ポールが弾くエレピが印象的なtake1。take12ではポールのベースが登場する。ここでのエレピはHohner Combo Pianet。60年代にはまだフェンダーRhodesも製造されておらず、エレピといえばこれだった。

 

13th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-3:30 AM

 

9:Good Morning Good Morning (take 10/Brass Overdub)

 この変拍子の嵐のような曲も、2月16日の録音から3週間が経っていた。この日、ブラス・セクションのオーバーダビングのために、サウンズ・インコーポレーテッド(サウンズ・インクと改名)を呼ぶ。1962年のスタークラブ巡業時代から旧知の間柄の彼ら。ジーン・ヴィンセントやリトル・リチャードのバックも務めた実力派だ。サックス3台、トロンボーン2台、フレンチ・ホルン1台で重厚なブラスを聴かせてくれている。

 

15th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-1:30 AM

 

10-11:Within You Without You (Rehearsal/take 1)

 「ノルウェーの森」でのシタール導入以降、インドへの思いを深めていたジョージは、ついに本格的なインド音楽を作り上げる。2月14日に完成していたジョージ作の「オンリー・ア・ノーザン・ソング」は、アルバム収録が見送られることになり、新たに用意されたのが「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」だ。ハンブルグ時代からのドイツの友人クラウス・ヴーアマンの家で(マンフレッド・マンのベーシストとして、この頃近所に住んでいた)、夕食をはさみながらインド思想の話をしている最中に思いついた曲だ。

 レコーディングでは、ジョージ以外のビートルズは不参加で、ジョージの知人のインド音楽家ナトバー・ソニがタブラ(打楽器)を演奏し、ロンドンのセッション・ミュージシャンがタンブーラやソードマンデルなど弦楽器を録音した。

 このtrack10(Rehearsal)では、ジョージがメロディを歌いながら演奏者にフレーズを教えている。続くtake1でベーシック・トラックはOKテイクとなり、後日ストリングスなどクラシカルな楽器のダビングが施される。

 ジョンはこれを「ジョージの最高傑作」と評価していた。ジョージも達成感があったのだろう。以降、あからさまなインド指向の作曲は少なくなり、やがて「サムシング」などに繋がっていく。

 

17th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-12:45 AM

 

 ビートルズの最大の理解者でEMIのプロデューサーであったジョージ・マーティン。クラシック畑の彼はピアノも弾け、ストリングスのアレンジもこなす。この時は、フリーの立場でプロデューサーとして関わっていたため、当然ながら他アーティストの仕事もあった。

 ポールは次なる新曲「シーズ・リーヴィング・ホーム」を、「エリナー・リグビー」のようにストリングスだけで歌うアイデアをあたためていた。いつものようにストリングスのアレンジをG・マーティンに依頼するが、あいにくシーラ・ブラック(彼女もブライアン・エプスタインの事務所のシンガーである。つまりビートルズの同僚だ)との仕事が入っていて「今はできない」と返答する。

 しかし、早く仕上げたい一心のポールは、マイク・リーンダーにアレンジを依頼してしまう。ポールはマイク・リーンダーが担当したマリアンヌ・フェイスフルの「イエスタデイ」のレコーディングで彼と会っていたのだ。これを知ったG・マーティンは傷ついた。「バカバカしい話だよ。私は他の仕事が入っていて無理だったんだ。私が腹を立てていると知って、ポールは驚いたようだった。今じゃポールも自覚したようだが」。

 

12-15:She’s Leaving Home (take 1&6/Vocal track)

 その「シーズ・リーヴィング・ホーム」の弦楽器のレコーディングは、マイク・リーンダーが書いた譜面を元にG・マーティンの指揮で行われた。プロデューサーとしての仕事をやり遂げるG・マーティンの「大人の対応」だろう。バツが悪かったポールは同席しなかったとの通説だったが、take6で「テンポはいいかい、ポール」、「イエス」という会話がはっきりと聴こえる。ポールも同席していたのだ。

 2月27日のデイリー・ミラー紙の一面に載った「優等生の少女が失踪」という記事から、ポールが家出少女の気持ちを思って書いた曲だが、ここでもジョンが両親の立場からの歌詞を対位法で挿入し、まるで映画の一場面のようなドラマティックな効果を果たしている。track15では、ポールとジョンのボーカルだけのトラックが聴ける。

 記事の少女は17歳のメラニー・コーさん。失踪10日後に保護されるが、自身と曲のつながりを知った彼女は「一人っ子で孤独だった私の人生そのものを描いていて、本当に驚いた」と語っている。彼女は実は4年前にポールに一度、会ったことがあった。音楽番組「レディ・ステディ・ゴー」のダンスコンテストで、審査員だったポールから優勝者に選ばれていたのだ。

 

29th March 1967 – EMI Studio 2, London – 7:00 PM-5:45 AM

 

 連日、EMIスタジオでのレコーディングに取りかかっていたビートルズだが、3月21日にちょっとした事件が起こる。「ゲッティング・ベター」の録音中に、気分が悪いとジョンが言い出した。G・マーティンは顔色の悪いジョンを見て、外の空気を吸わせるべきだと感じたが、スタジオの外には、いつものようにファンが列をなしているので、新鮮な空気の吸える屋上に連れていったのだ。

 しばらくしてポールが「ジョンはどこ?」とたずねると、マーティンは「屋上で星を見てるよ」と答えたが。ポールは一瞬の間をおいて不意に愕然とする。ジョンがなぜ具合が悪いのか、ポールは知っていたのだ。ジョンはこのとき、幻覚剤LSDでバッドトリップになっていた。あわててポールたちは屋上へ駆け上がり、その手すりも柵もない屋上からジョンを連れ戻した。

 「あのバッドボーイが、大麻を吸ってるのは知っていたけど、LSDをやってるとは知らなかった」とはG・マーティンの弁。

 

16:Good Morning Good Morning (Animal Montage)

 ジョンはこの「グッド・モーニング・グッド・モーニング」に動物たちの鳴き声を重ねたいと言い出した。それも弱肉強食的な順番で、と。ニワトリが鳴き、小鳥がさえずり、猫がニャーと言って、犬が吠え、馬がいななき、羊がメェー、ライオンがガォー、象がパオーンという具合だ。エンジニアのジェフ・エメリックが苦心して作り上げたループテープがtrack16で聴ける。実際に曲と合わせるときは挿入箇所が微調整されている。

 

 

17:Being for the Benefit of Mr. Kite! (Calliope Tape)

 こちらもテープループの元音源だ。ジョンが「床に敷き詰めたおがくずの匂いがするサーカスの雰囲気だ」と要望したサウンド・エフェクトは、G・マーティンがテープ・ライブラリーから「カリオペ(スチーム・オルガン)」の音を探し出し、ジェフ・エメリックがテープを切り刻んでループを作成した。

 

18-20:With a Little Help from My Friends (take1、2&10)

 アルバムが完成した今となって思えば、この2曲目は非常に重要だ。1曲目の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の最後のヴァースで、「さぁ、一緒に歌いましょう。唯一無二のビリー・シアーズが1曲歌います」との紹介のあとに続くのが、この「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」だからだ。しかし、この曲が録音されたのは最終段階ともいえる3月29日だ。そして翌日4月1日には完成させてしまう。

 ジョンとポールによって、3月中旬にはこの曲のアイデアは固まっていたのだろう。当初からリンゴが歌うことを念頭に作曲されている。リンゴ用にキーは低めの”E”に設定され、ポールが歌う「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のキー”G”から、転調して繋ぐ進行は見事だ。

 ここにはポールがピアノ、ジョンはカウベル、ジョージがエレキでリンゴがドラムというシンプルな編成で、すぐストップするtake1、完奏するtake2、最終OKテイクとなるtake10を収録している。

 ビリー・シアーズ役のリンゴは歌う「もし僕が音程をハズして歌ったなら、君たちは席を立ってしまうかい?友達に助けてもらってなんとかするよ」。いかにもリンゴの人柄にあった歌詞だが、隠された意味はサイケデリックの時代にぴったりなものだった。「Friends」は「様々なドラッグ」を意味していて、サビの隠れた意味は「ヤクのチカラを借りてハイになっちゃう」となる。

 

1st April 1967 – EMI Studio 1, London – 7:00 PM-6:00 AM

 

 3月30日の夕方に、あの伝説的なアルバム・ジャケットの撮影をする。ピ-ター・ブレイクと彼の妻ジャン・ハワースがアートワークを担当し、1967年にグラミー賞(ベスト・アルバム・カバー)を受賞している。撮影はマイケル・クーパー。クーパーはストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』も撮影するなど、ロックカルチャーの世界で活躍したが、ドラッグ渦の中、1973年に自死している。

 撮影は3時間ほどで終了し、ビートルズは、その足でEMIスタジオへ向かい「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を仕上げた。

 そして4月1日に、このセッションの最後のピースとなる曲を録音する。

 

21-25:Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise)(Rehearsal/take5,8,9)

 古くからロードマネージャーを務め、ビートルズの片腕とも言われるニール・アスピノールが提案したことで、1曲目の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が、「リプライズ」と形を代えアルバムの最後に再登場する。これがあることでアルバムのコンセプト度は一気に高まった。

 テンポを速めてライヴ演奏っぽく高揚した気分のまま、聴衆へコンサートの終わりを知らせ、別れの挨拶をする。歌うフレーズこそ1曲目と同じだが、コード進行も構成も違う。キーは”F”で始まり”G”に転調することで、架空コンサートのアンコールである次曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」へ見事に繋がっていく。

 なぜか普段は使わないEMIの第1スタジオで録音されている。その理由は不明だが、一番広いスタジオである。ジェフ・エメリックは「あの部屋でタイトなリズム・セクションを録るのは大変なんだ」と回想している。

 このあと多くのロックバンドが、アルバム最後に「リプライズ」として同じ曲を収録することが流行になる。

 

20th April 1967 – EMI Studio 1, London – 7:00 PM-2:15 AM

 

 ポールが4月3日から12日まで渡米する予定もあり、先の4月1日が最終期限であった。ジョージは自らの「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」を3日に仕上げ、残るミックス作業はG・マーティンやエンジニアたちが尽力した。

 

26:Only A Northern Song (RS6)

 ポールが帰国すると、アルバムの全曲は終了しているのに、一度は没にした「オンリー・ア・ノーザン・ソング」を20日に取り上げる。後に映画『イエロー・サブマリン』で使用され、サントラ盤に収録される運命をたどる曲だ。

 この日は他に、LPの最後の部分(針が回りきって内周で回転する=インナー・グルーヴ)に入れる逆回転の声の謎のメッセージを録音する。犬にしか聴こえない高周波数音はカッティングの際に追加された。

 

22nd February 1967 – EMI Studio 2, London Track Down Working Tape

 

27-28:A Day In The Life (RS7/8)

 最後にボーナストラックとして「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のミックス作業のワーキングテープから、リミックス7と8を収録している。コンピューター制御でミックスが作れる現代とは違い、フェーダーを手で上げ下げしてミックスしていく作業だ。

 

息つく間もなく「マジカル・ミステリー・ツアー」へ

 

 1966年11月24日に「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」で始まったこのセッションも、1967年4月21日に遂に終わる。しかし、その4日後の4月25日には、もう次のアルバムのタイトル曲となる「マジカル・ミステリー・ツアー」の録音がスタートしている。ポールは確かに創作力が湧き出て自分でも制御できない状態だったのだろう。誰かに「仕事をしろ!」とケツを叩かれたわけでもなく、ビートルズ自らが望んで創作作業に挑んでいくのだ。魔法のような1967年は、このEMIスタジオの中で沸点に達そうとしていた。

 

 

CROSS(the LEATHERS/島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS)