エターナルグルーヴズ〈ETERNAL GROOVES〉

ライナーノーツ

MILES DAVIS - ZURICH, SWITZERLAND April 8, 1960

「たしか、最初はフィラデルフィアだったと思う」
 レッド・ガーランドが、マイルスと行なった最初のクラブ・ギグについて、ゆっくりと語り始めた。
 マイルス・デイヴィスのグループを退団したしばらくのちに、ガーランドは故郷のダラスに引っ込み、めったなことではニューヨークのジャズ・シーンに戻ってこなかった。その彼が、10年以上のブランクを経て、ニューヨークのジャズ・クラブ「ラッシュ・ライフ」に出演したのは1982年6月のことだ(10月にも出演)。当時、ニューヨークで留学生活を送っていたぼくは、アパートの目と鼻の先にあったこのクラブに通いつめ、彼とも何度か話をしている。
 ガーランドは、遠い日の記憶をまさぐるようにして、紳士的な態度で、懸命にぼくの質問に答えてくれた。しかし、ずいぶん昔のことで、記憶がはっきりしない。ただ、ある日、突然マイルスから電話がかかってきて、ツアーに誘われたことは明確に憶えていた。55年4月のことだという。
「リハーサルもなにもなかった。数日後に34丁目の駅でメンバーと落ち合って、そのまま汽車に乗った。そこにはポール・チェンバースとフィリー・ジョー・ジョーンズがいた。サックスはソニー・ロリンズだったと思う。ジョン・コルトレーンでなかったことはたしかだ。汽車の中でも、マイルスは音楽についてなにも喋らないし、こちらも聞かなかった。考えてみれば、マイルスと音楽の話なんかほとんどしたことがない。彼が話すのは、ボクシングや服や女のことばかり。それと、(チャーリー)パーカーの話もよくした。とても尊敬していたようだ。死んで間がなかったこともあり(パーカーはこの年の3月に死去)、最初のころはパーカーの曲をいつも演奏した。ボクシングの試合をマディソン・スクエア・ガーデンまで観に行ったこともある。いまの場所じゃなくて、もっと南にあった時代だがね。マイルスときたら、大きな試合があるときは、仕事をキャンセルしちゃう。それも1回や2回じゃない。一緒にスパーリングもやった。彼はハーレムにあったシュガー・レイ・ロビンソンのジムに通っていた。わたしはミドル級のボクサーとして試合に出たこともあったから、よく誘われてね。マイルスはいいボクサーだった。ちょっと絞れば、フェザーかライト級の選手になれたんじゃないかな?」
 ガーランドがいうように、クインテットにはロリンズが参加していた。それが4月18日から24日まで行なわれたフィラデルフィアの「ブルーノート」におけるギグだ。のちにレギュラー・クインテットを結成するメンバーの4人までが顔を揃えていたのである。マイルスがレギュラー・クインテット結成の意思を固めて動き出すのは7月に行なわれた「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」以後のことだ。ただし、それ以前に臨時編成とはいえ、ほとんどのメンバーが集まっていたことは興味深い。
 記録によれば、「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」を終えた直後の「カフェ・ボヘミア」にも、このメンバーで出演している。その後は、9月までロリンズがグループにとどまり、麻薬療養のため彼がシカゴに移ったことから、グループには新しいテナー・サックス奏者が必要になった。
 そのため、フィリー・ジョーがサン・ラ・アーケストラ(サン・ラは自身のorchestraをarchestraと表記する)のジョン・ギルモアを連れてくる。続く1週間は、ギルモアでクラブ・ギグをこなしたものの、彼はマイルスの求めている人材でなかった。次いでフィリー・ジョーは、フィラデルフィアで音楽仲間だったジョン・コルトレーンのことをマイルスに教える。この時点で、コルトレーンに関するマイルスの認識は、数年前に「オウデュボン・ボールルーム」で聴いたセッションぐらいのものしかなかった。
 そして、9月27日に行なわれたメリーランド州「クラブ・ラスヴェガス」のギグから、コルトレーンが1週間単位の契約でクインテットに加入してくる。1週間契約にしたのは、マイルスがまだロリンズの復帰を考えていたからだ。
 そうこうしているうちに、クインテットで吹き込む1回目のレコーディングが迫ってくる。マイルスを除くメンバーは、コルトレーンがいちばんよかったと口々にいう。そんなときに、あるクラブでコルトレーンと親しいテナー・サックス奏者のベニー・ゴルソンと顔を合わせたことが、マイルスの気持ちを固めた。
「マイルスが『コルトレーンをどう思う?』と聞いてきた。だから、こういってやった。『いまは未熟かもしれない。でも、この若者はそのうちきっとすごい才能を発揮するようになるだろう』ってね。あの時点で、トレーンはマイルスとのギグを終えてフィラデルフィアに戻り、オルガン奏者のジミー・スミスと演奏していた。わたしもフィラデルフィアとニューヨークを行ったり来たりしていたから、コルトレーンの動向はわかっていた。マイルスはビバップやハード・バップとは違う音楽をやりたがっていた。『それなら、エスタブリッシュされたミュージシャンと演奏するより、これからのミュージシャンに可能性を見出したほうがいい』と話した。コルトレーンはわたしの弟分みたいだったから、マイルスにそういって、暗に彼のことを推薦したんだよ」(ゴルソン)
 この言葉が、マイルスに最終的な決断をさせた。早々にフィラデルフィアからコルトレーンを呼び寄せた彼は、それから1か月後の10月26日、コロムビアのスタジオでクインテットによる歴史的な初レコーディングを行なう。それが『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』だ。
 こうして歴史に残るクインテットが本格的な活動を開始した。ニューポートのフェスティヴァルから3か月半後のことだ。
 以来、3年半。途中でマイルスのグループを抜けたこともあるが、コルトレーンは彼のよき片腕としてグループの発展に寄与してきた。しかし、いよいよ独立のときがやってくる

 

 

 マイルスの1960年は、3月10日から翌日にかけてコロムビアのスタジオで吹き込んだ『スケッチ・オブ・スペイン』で始まる。その後にしばしのオフがあって、同月の20日にクインテットを率いてヨーロッパに旅立つ。彼にとっては、これが自分のグループで行なう初のヨーロッパ・ツアーだ。
 以下はこのときのスケジュールである。

 

 March 21, 7:30 and 10:00 pm, Paris
 March 22, 7:00 and 9:15 pm, Stockholm
 March 23, Njardhallen Sweden
 March 24, 7:00 and 9:30 pm, Copenhagen
 March 25, 8:00 pm, Hannover
 March 26, 8:00 pm, Oldenburg
 March 27, 8:00 pm, Berlin
 March 28, WDR Studio, Dusseldorf(Davis out)
 March 29, 6:00 and 9:00 pm, Hamburg
 March 30, Frankfurt
 March 31, 9:15 pm, Milan
 April 1, 8:00 pm, Kaiserslautern
 April 2, 6:15 and 9:45 pm, Koln
 April 3, 6:00 and 9:00 pm, Munich
 April 4, 8:00 pm, Karlsruhe
 April 6, Vienna
 April 7, two shows, Nurnberg
 April 8, 8:30 pm, Zurich
 April 9, 8:15 pm, Scheveningen
 April 9, midnight, Amsterdam
 April 10, 8:00 pm, Stuttgart

 

 このヨーロッパ・ツアーの模様は、2018年に出た『マイルス・デイヴィス&ジョン・コルトレーン/ザ・ファイナル・ツアー [ブートレグ・シリーズ Vol.6]』(コロムビア)で、3月21日、22日、24日のコンサート(24日は最初の回のみ)が紹介されている。それらに、今回はこのチューリッヒ・コンサートが加えられることになった(同時に発売された『THE HAGUE, HOLLAND April 9, 1960』『AMSTERDAM, HOLLAND April 10, 1960』もこのときのツアーで残されたもの)。
 3週間におよんだツアーのトピックは、コルトレーンが在籍したマイルス・クインテットによる最後の演奏が聴けることだ。中では〈イフ・アイ・ワー・ア・ベル〉に注目したい。今回のツアーで演奏されたこの曲は、調べる限りで、このトラックしか存在しない。コルトレーンを含むマイルス・クインテットでのライヴ演奏となれば、58年9月にニューヨークの「プラザ・ホテル」で録音された『ジャズ・アット・ザ・プラザ Vol.1』(コロムビア)がある。しかし、ライヴで演奏される機会は、同じ時期に取り上げたほかの曲に比べて回数が圧倒的に少ない。
 軽快に演奏されるこの曲でも、ツアーでコルトレーンが繰り広げた激しいプレイが全編で貫かれている。コルトレ—ンには、独立後にどんな演奏をするかのイメージが出来上がっていたのだろう。そのことを考えると、彼がプレイしているパートはのちのコルトレーン・カルテットの演奏に通じている。この後に結成するマイルスのクインテット共々、60年代を代表するコンボになったコルトレーン・カルテットの予兆を感じさせるのが、本作も含めて、このツアーで残されたパフォーマンスだ。
 余談だが、スケジュールによれば、3月28日のコンサートはマイルスが不参加となっている。理由は不明だが、これにより思わぬハプニングが起こった。コンサートの終盤に、同じツアーに参加していたスタン・ゲッツとオスカー・ピーターソンが飛び入りしたのである。ゲッツは最後の数曲に、ピーターソンはラストの〈ハッケンサック〉の冒頭でウィントン・ケリーの肩を叩いて交代したという。
[(c)WINGS 21103048:小川隆夫/TAKAO OGAWA]