エターナルグルーヴズ〈ETERNAL GROOVES〉

ライナーノーツ

MILES DAVIS - AMSTERDAM, HOLLAND April 10, 1960

 1959年春に吹き込んだ『カインド・オブ・ブルー』の前後から、マイルス・ディヴィスのグループは動きが慌ただしくなってきた。前年のピアニスト交代劇に続いて、今度はジョン・コルトレーンの独立問題が噴出したのだ。
59年に入って、コルトレーンはプレスティッジからアトランティックに移籍している。プレスティッジは日ごろから予算が少なく、条件面で彼は不満に思っていた。そこでみずからアトランティック・レコーズのネスヒ・アーティガン社長と話をつけて、新たな契約を結んだのである。
 コルトレーンが独立したがっていることは、マイルスにもわかっていた。そのため、収入面の不満を少しでも解消できればと、エージェントのジャック・ウィットモアに命じて、自分の仕事がオフのときにはコルトレーン・グループの仕事を入れさせるようにした。待遇をよくすることで独立を阻止しようとしたのだ。
しかし、それが逆効果となってしまう。コルトレーンは、自分の仕事が増えてきたことでますます独立を考えるようになったからだ。彼がアトランティックに1作目の『ジャイアント・ステップス』を吹き込んだのは、『カインド・オブ・ブルー』を録音した直後である。その事実も重なり、コルトレーン独立の噂が広がる。
「トレーンがソプラノ・サックスを吹くようになったのは、オレがプレゼントしたからだ。ヤツがグループから独立しようとしていたんで、思いとどまらせるため、前からほしがっていたソプラノ・サックスをプレゼントした。セルマーで最高のヤツをな」(マイルス)
しかしそうこうしているうちに、マイルス自身にも厄介な問題が振りかかってくる。結果として、これがコルトレーンの独立に拍車をかけてしまった。59年8月26日のことだ。
「バードランド」に出演していたマイルスは、休憩時間に店の前に立っていた。すると、白人警官がやって来て、「そこをどくように」といったのである。「ここで仕事をしているのに、どうしてどかなければいけないのか」と、逆らったことが裏目に出た。
 警官は、「そこから動かなければ逮捕する」と迫る。それでもマイルスは動かず、手錠を出そうとした彼と揉み合いになった。そして、その警官がよろめいたところに別の白人警官が飛んで来て、有無をいわさずマイルスの頭を警棒で殴ったのである。
 マイルスは公務執行妨害と警官への暴行罪で告発され、さらにはキャバレー・ライセンスまで取り上げられてしまう。このライセンスがなければ、酒類を提供する店での演奏はできない。彼はクラブのステージに立てなくなってしまったのだ。
 そのため、グループはマイルス抜きで当面のスケジュールをこなすことになった。コルトレーンとキャノンボール・アダレイがリーダーシップを取って、グループの活動は続けられる。しかし、マイルスがいなくてもバンドは評判を落とさなかった。これもコルトレーンの自信に結びついたのである。
 9月に入ると、マイルスとの演奏で資金を貯めたキャノンボールが自分のグループを結成するため、コルトレーンよりひと足先に独立し、グループは再びクインテットになった。当時のマイルスは、11月と翌年の3月にギル・エヴァンス・オーケストラと『スケッチ・オブ・スペイン』(コロムビア)のレコーディングを行なった以外は、たいていの時間を、結婚したばかりのフランシスとすごしていた。キャバレー・ライセンスがなかったので、しばしの休息を楽しんでいたのだ。
 この間に、コルトレーンは独立を目指し、自身のカルテットで活動を続けていた。『スケッチ・オブ・スペイン』のレコーディングは60年3月半ばに終わり、マイルスのクインテットには、直後から4月いっぱいの予定でヨーロッパ・ツアーが組まれていた。
 このツアーは、ノーマン・グランツが主催したJ.A.T.P.によるものだ。コルトレーンは、自分の代わりに新人のウェイン・ショーターを紹介することで独立したいとマイルスに申し出ている。マイルスはそれを認めず、彼を連れてヨーロッパに飛び立つ。しかし、独立は時間の問題だった。「辞めたい」という人間を無理やり引き留めてもいい結果は生まれない。そこで、このツアーの参加を条件に、マイルスはコルトレーンの独立を認めたのである。
 ツアーのスケジュールは次のようなものだ。

 

 March 21, 7:30 and 10:00 pm, Paris
 March 22, 7:00 and 9:15 pm, Stockholm
 March 23, Njardhallen Sweden
 March 24, 7:00 and 9:30 pm, Copenhagen
 March 25, 8:00 pm, Hannover
 March 26, 8:00 pm, Oldenburg
 March 27, 8:00 pm, Berlin
 March 28, WDR Studio, Dusseldorf(Davis out)
 March 29, 6:00 and 9:00 pm, Hamburg
 March 30, Frankfurt
 March 31, 9:15 pm, Milan
 April 1, 8:00 pm, Kaiserslautern
 April 2, 6:15 and 9:45 pm, Koln
 April 3, 6:00 and 9:00 pm, Munich
 April 4, 8:00 pm, Karlsruhe
 April 6, Vienna
 April 7, two shows, Nurnberg
 April 8, 8:30 pm, Zurich
 April 9, 8:15 pm, Scheveningen
 April 9, midnight, Amsterdam
 April 10, 8:00 pm, Stuttgart

 

 最終日前日の4月9日は8時15分からオランダのスヘフェニンゲン(ハーグ)でコンサート があり(これは同時発売の『THE HAGUE, HOLLAND April 9, 1960』で聴ける)、それを終えたマイルス一行はアムステルダムに向かう。12時から別のコンサートが組まれていたからだ。高速道路を使えば約1時間の距離である。スヘフェニンゲン・コンサートが演奏時間だけで45分ほどだったから、楽器の撤収に要する時間などを考慮すれば、かなり慌ただしい移動だった。
 3週間のツアーでオフは1日だけ。強行軍のうえ、終盤だから疲労も蓄積していただろう。それでも、マイルス以下の面々は張り切ったプレイを繰り広げる。冒頭のMCを務めたのはツアーを率いたJ.A.T.P.の総帥ノーマン・グランツだ。
“On the second half of our jazz concert tonight, as Mr. Van Rees told you, we feature the Miles Davis Quintet with Jimmy Cobb on drums… The bassist is Paul Chambers… And the pianist is Wynton Kelly… Tenor saxophone, John Coltrane… And Miles Davis on trumpet…”
 この言葉から、第2部の演奏であることがわかる。第1部の演奏は、これまでのところ海賊盤でも出ていない。そして、ツアーは翌日というか、明けて10日夜、8時からのシュトゥットガルト公演で千秋楽を迎える。こちらの音源もいまのところは発掘されていない。となれば、本作が現時点でマイルス・バンドにおけるジョン・コルトレーン最後のパフォーマンスを記録した作品になる。
 注目したいのは、疲れていたせいかもしれないが、コルトレーンのプレイがほかの日に比べるとおとなしいことだ。ことにコロムビアが2018年に発売した『マイルス・デイヴィス&ジョン・コルトレーン/ザ・ファイナル・ツアー [ブートレグ・シリーズ Vol.6]』で聴けるツアー初期のパフォーマンス——初日にパリの「オランピア劇場」で行なわれた2回のセット、翌晩のストックホルムの2回のセット、24日にコペンハーゲンの「チヴォリ・コンサート・ホール」で残された1回のセット——とはひとが違ったような印象を受ける。
 そちらの過激なブローも魅力だが、この夜の穏やかな演奏も捨てがたい。〈フラン・ダンス〉に認められるロマンティックかつ優しい響きは、曲のムードにピッタリで、続くウィントン・ケリーのスウィンギーなタッチをさらに引き立てるものになった。
 マイルスもそうだが、コルトレーンとふたりで全力投球するライヴは、聴いて疲れるひともいるだろう。そういう方には、この夜のパフォーマンスがちょうどいい。マイルスのリリカルなプレイもさることながら、本来なら持てるパワーを全開させる〈ソー・ホワット〉でのコルトレーンが、落ち着いたいい味を出している。
 移動を挟んで1日2回のコンサート。怪我の功名かもしれないが、こういう演奏を最後の最後に残していたことに、なんともいえない心地のいい気分を味わっている。

 

 

 コルトレーンが退団したあとのことにも触れておこう。後任として参加してきたのはジミー・ヒースだ。ヒースは麻薬常習の罪で逮捕され、55年から59年まで刑務所に入っていた。出所してきたばかりの彼を推薦したのがコルトレーンだ。このときも、マイルスはお気に入りのソニー・ロリンズを候補に挙げていたが、この時期、彼は2回目の隠遁生活(59〜61年)に入っていた。そのため参加は不可能だった。
 ヒースには、マイルスから直接電話が入った。
「カリフォルニアにいるマイルスから電話がかかってきた。バンドへの誘いだった。わたしはある事情であまり仕事をしていなかったから、すぐに引き受けた。しかし、最初にマイルスのバンドに合流したときは、彼らのやっている音楽がよくわからなかった。スタイルがまったく違っていたからね」(ヒース)
 しかし、ヒースはすぐにマイルスの音楽を理解し、バンドに溶け込んでいく。バンドがニューヨークに戻ったところで、彼はフィラデルフィアの家族のもとに一時帰郷する。そして、そこで係官に、仮釈放の規則としてフィラデルフィアから半径60マイル以上、外に出るのは違法と指摘され、ニューヨークに戻ることができなくなってしまう。
 マイルスには、この年2度目のヨーロッパ・ツアーが迫っていた。ヒースが無理なら代わりを見つけなければならない。そこで、前回のヨーロッパ・ツアーでコルトレーンが自分の代わりにといって推薦したウェイン・ショーターのことを思い出す。ところが連絡をしてみると、彼はアート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズに参加しており、「スケジュール的に無理」との返事が返ってきた。そこで、苦肉の策として起用したのが、スターの座についていたソニー・スティットだ。
「マイルスとはまったくスタイルが違っていたから、最初は断った。それでも熱心に誘ってくれるんで、重い腰を上げることにした。ヨーロッパにはいい思い出があったし、バンドのメンバーも旧知の間柄だったんで、音楽性の違いさえ問題なければ、ツアーは楽しいものになると思えたからだ」(スティット)
 ヨーロッパ・ツアーから戻ったマイルスのクインテットは、スティットを加えたまま11月に2週間「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出演する。このときに対バンで出演していたのが、スコット・ラファロとポール・モチアンを擁するビル・エヴァンスのトリオだ。この期間中、彼らが演奏する〈サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム〉を聴いて、マイルスはそれを次のレコーディングに使おうと考える。
 そして、ここからマイルスは60年代の快進撃を始める。
[(c)WINGS 21103050:小川隆夫/TAKAO OGAWA]